川村 みきをの仕事のメモ

川村 みきをの仕事のプロセスでアウトプットされたものをメモしてるブログ

ウェブと禅についての考察その2:出現したもうひとつの空間

めてインターネットにつながっているパソコンに、

ちゃんと触れたという実感があったのは、

アメリカのテキサス州キングスビルという街で暮らしていた時に通っていた、

大学のパソコンルームに置かれていたパソコンに触っている時だったと記憶している。

 

それは1997年のこと。

 

“ Yahoo ” という単語と“.com”という単語は雑誌か何かで何となく知っていたので、

うろ覚えな記憶を辿りアドレスバーに打ち込んだりして操作していた。

 

多分…ダイヤルアップ接続だったんだろう。

カタカタと画面がつながった時は、

不思議な感覚に包まれた。

 

“ この白い箱の中が 何らかの方法 で様々な場所や人とつながっているのか…  ”

 

そんなことを漠然と思った。

 

1997年頃のパソコンはこんな感じだったかな?

◆1997年頃のパソコンはこんな感じだった

 

あの頃は、

 

そんなおかしなメルヘンと、

もっといろいろこの白い箱の中を冒険したいという、

そんな感情を抱えていた。

 

あれから20年が過ぎた。

 

白い箱は二つに折りたためるボードへ進化して、

ラップトップパソコン

◆ラップトップパソコン

 

そして、硬いガラス板へ進化していった。

 

これはiPad

iPad

 

 

これらの画面から垣間見える、

様々な場所で暮す様々な人達が創り出しているそんな空間は、

どんどん広がっていって、

いつの間にかわたし達が居る現実空間に重なっていた。

 

 

誰もがITやWebに初めて向き合った時味わったもの

 

 

1年後の1998年にアメリカから帰国後にわたしは、

池袋にある業務系プログラミングの会社に就職した。

 

何故?プログラミングの会社かと言うと、

どうしてもITやWebの業界で仕事をしたくて、

よくわからないまま当時の就職情報誌のB-ingという雑誌をペラペラとめくり、

様々な “ IT系 ” と思われる会社を片っ端から受けまくったのだ。

 

西新宿にあったWebサービスの開発会社や、
渋谷にあったホームページ制作の会社・・・

全て落ちまくってやっと池袋にある、

業務系のプログラミングの会社に拾っていただいた。

 

その会社でわたしは研修らしきものを何も受けずに、

いきなり現場に放り込まれてしまった…

 

そうしてパソコンを前に苦痛の日々が訪れる。

 

面接の段階で「未経験です。」と伝えてあるから、
採用される以上は会社も何らかの対策を講じることだろうと推測していたが、

それは甘かったらしい。

 

結局、1年持たずにその池袋の業務系プログラミングの会社は退職した。



この時この経験が後になって、
ものすごく活きてくるということを知らなかった。

 

わたしはこの池袋の会社で、
慣れないよくわからないパソコンを前に1年ほど格闘しながら、
毎日8時間から10時間座っていて多大なストレスというか苦痛を感じていたのだ。

 

そんな日々から解放されたわたしは、

「IT系の仕事なんか二度とするものか!」と思っていた。

 

もっとも、
わたし自身のそんな決心は世の中の流れですぐに打ち砕かれていくのだが…

 

 

 新しい価値に多くの人が示す反応

 

 

袋の業務系プログラミングの会社を退職したわたしに、
ちょうどいいタイミングでお声がかかった会社がある。

 

それがわたしのその後の人生を大きく変えることになる、
日本中で悪名が轟くことになる青色の人材サービスの会社なんだが、
わたしにお声がかかった当時はまだ上場前でほどんど誰にも知られてない、
小さな会社だった。

 

人材サービスが何を意味するのか全くわからないまま、
入社してみた。

 

今思うと、若気の至りだ。

 

ただ、IT系じゃないからという動機だけはあったように記憶している。

東京で事業をそして求人を行っていた会社だったが、
入社してみるといきなり福島県郡山市に新しく事業所を開設するので、
そこに行って欲しいということになった。

会社員の宿命なんだろうけど、
純粋に面白そうだったので応じた。



赴任先の福島県郡山市でわたしは初めてWindows 3.1なるものに触れた。
アメリカの大学にあったパソコンは何がなんだかよくわからなかったので、
ちゃんとWindowsというOSを認識したのはこの時が初だった。


ウェブブラウザはMOSAICモザイクというものが入っていて、

いろいろなホームページを夢中で見ていたことを覚えている。

そんなわたしを見ていた周りの同僚たちは不思議そうな目をしていた。

その頃から気づいたらわたしはその青色の人材サービスの会社の中で、
“ パソコンに詳しい人 ”という立場になっていた。


もっとも当時は悪い気もせず、
誰かに必要とされると人は嬉しくなるもので、
鼻高々にパソコンの基本的なイロハを教えていた。

誰かに教えるということは、
わたし自身が一番パソコンについて理解していなければならないということで、
いつの間にかパソコンについて様々な学習をするようになっていた。

 

そんな時に見えてきたものが、
パソコンの操作についていろいろとわたしに聞いてくる人達のほとんどは、
半端じゃないストレスを抱えながらパソコンに向き合っているということだった。

これはわたし自身が池袋の業務系プログラミングの会社に居た1年間で、
味わい続けた苦痛よりももしかしたら酷かったのかもしれない。

何故なら、
わたしは自分自身で選んでIT技術系の業界の扉を叩き、
その会社に入ってゼロから技術を学ぼう(教えていただこう)としていたから、
多少の困難や苦痛は覚悟していたから心の準備は整っていたわけだ。


だけど、
わたしが人材サービス会社に入って、
福島県郡山市で出会った人達にはそんな覚悟や心の準備など無かったはずだ。

会社に入っていきなりほとんどの人にとっては、
ほぼ初めて触るであろうパソコンという未知の機械をドンッ!と目の前に置かれて、

「これで業務をやりなさい。」



と、言われるわけだ。

わたしが勤めていた人材サービス会社は、
急成長のベンチャー企業だったから、
[パソコンの研修]といった事前研修など皆無だった。


人材サービスというものがなんだかよくわからない…
わたしのような人間を説明も研修も行わずに、
いきなり新設事業所に送り込むような会社だあるわけがない。

そんな環境だったから、
誰もが戸惑いながらパソコンという未知の機械と向き合わざる得ないという、
そんな状況が出現していた。


だからわたしのようなそんな未知の機械に興味を持ち、
いろいろと触れている(と、彼らの目には映っている)人間に、
頼るしか無かったんだろう。


わたしもわたしなりに分かる範囲で業務における、
パソコンの使い方を教えていた…

その時期、
わたしはパソコンのことをこんな風に定義していたそれは・・・

『パソコンって、複雑な電卓みたいなもの…』

でも、
この定義はすぐに成り立たなくなる。
そんな単純なものじゃなかった。


パソコンって新たに出現したもうひとつの空間をつなげるための機械…

そう定義し直さないと、
いろいろと説明に矛盾が生じてきたからだ。

まだ、この時は知らなかったが、
わたしはそんな機械に人生を大きく翻弄されてしまうことになる…